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与那嶺貞 幻の読谷山花織をふたたび

先日、知人が沖縄県浦添市のとある病院に入院した、との連絡がありました。

病状は安定しているとのことですが、その時ふとその病院で、ある人が亡く

なられたことを思い出しました。

与那嶺貞さん。

読谷山花織の復興に尽力した方です。

今から16年前のことです。

 

読谷山花織(よみたんざんはなうぃ)は、琉球王朝期に南方諸国との交易で

伝播した絣や浮織の技法を用いた織物で、琉球王府時代には読谷山花織とし

て独自に織られ、受け継がれてきました。しかし、明治の中頃から時代の波

に押され衰退してゆき、沖縄戦後は人々の記憶からすっかり忘れ去られて、

「幻の花織」となってしまったのです。この絶滅寸前となっていた600年

の歴史を誇る読谷山花織をたった一人で復活させたのが、沖縄出身の女性、

与那嶺貞さんでした。

 

「与那嶺貞は1909年に現在の沖縄県読谷村で生まれた。県内唯一の女子

実業学校で織物を学び、その後織物の仕事に従事したが戦争により中断。戦

後は戦死した夫に代わり残された3人の子を育てるため、織物の世界からは

遠ざかっていた。しかし、貞に再び機織りに向かわせる大きな転機が訪れる。

昭和39年、読谷村の復興事業の一環で進められていた特産品作りで、伝統

の読谷山花織に白羽の矢が立ち、その復興の願いを託されたのが貞だった。

 

読谷山花織はかつては交易品や献上品として織られていた。しかし琉球国が

なくなったことや、安い織物の流入などで次第に廃れ、70年近く途絶えて

いた。長らく機織りの仕事から離れていた貞は、当初は固辞したが、花織復

活の熱意に押され、意を決してその復興に取り掛かる。貞55歳の時だった。

 

しかしその道のりは険しかった。長らく途絶えていた読谷山花織を「織るの

を見たことがある」という人はいても、実際に織ったことのある人はいなか

ったのだ。その上、織機や道具もなく、まったくのゼロからのスタートだっ

た。貞は花織の手懸りを求め島中を奔走した。現存する花織の布片をほぐし

糸を染め、試行錯誤を繰り返し、ひとつひとつ再現していった。納得いくも

のが出来るまでに10年、ついに読谷山花織の復元に成功した。貞はそれに

止まらず、自分なりの工夫を加え、時代に合った花織を創作、その存在を広

めた。また花織の将来を考え、後継者の育成にも尽力した。そしてその功績

が評価され、1999年、遂に県内で4人目の人間国宝に認定されたのだ。

ときに貞90歳。齢90にしての偉業であった。」

 

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読谷山花織の特徴に、浮織という技法で織られた鮮やかな色糸の幾何学模様

があります。よく見ると、それは3つの形と縞の組み合わせで構成されてい

ます。この3つは実は3種類の花の形を表しています。それぞれ意味は違い

ますが、どれも愛しい人に寄せる、祈りや想いが込められているのです。

着るひと、身につけるひとの、幸せを願う布。これこそ、読谷山花織が持つ

大きな特徴なのです。

 

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   カジマヤーバナ(風車花)  97歳になると風車を配る風習から 長寿の願いを込めて

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    オージバナ(扇花)    末広がりの扇形を写した扇花で子孫 繁栄の願いをこめて

    2019914101637.gif        ジンバナ(銭花)     お金を形取った模様で裕福になりますようにという願いをこめて

 

 
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読谷山花織の復元に尽力した人間国宝・与那嶺貞さんが気管支炎で亡くなられたのは

2003年1月30日、享年94歳でした。

この九寸は、お亡くなりになる1週間前に入手した、言わば遺作です。

簡単な印刷の証紙には、手書きの名前に三文判のような印が押されています。

こんな簡素に見える証紙ですが、「人間国宝・与那嶺貞」作の証しなのです。

貞さんの人となりを彷彿させるようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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